■今までの政治とは有限の富の分配
私が学生のころ、大教室での平板な政治学の授業では、高名な先生がこう教えていた。 「政治とは有限の富を分配することを言う」なるほど、大学ではこう整理するものかと私は感心した。 当時すでに、オイルショックなどは昔のできごとだったとはいえ、ガソリンの埋蔵量は30年と言われていて、「有限」ということはまさに実感だった気がしている。 理想の共産社会でない以上、必要な人に必要なだけいくらでも富を分配できると言うのは無理。 であるならば、有限のものをそれぞれの人に、多少は我慢してもらいながら、皆で分けるノウハウを政治と名づけたということだったと思う。
もともと政治とは、政(まつりごと)であった。 それぞれ欲望や求めることの違う多数の人間を納得させて、共同生活が送れるようにまとまらせるための仕掛けといえるとも思う。 そのために、人間を超えた存在である神が登場したり、占いが活躍したりした時代もあった。 日本では長い間、天皇制という制度が利用され、今では世界的に民主主義というシステムを使っているとも言えるかもしれない。
歴史の本などによると、弥生時代に定住生活、家畜の飼育、稲作文化、が浸透して、共同生活も本格化し、余剰作物が米蔵にしまわれるようになったという。 それ以後、富という概念が定着し政治、政の重要な課題も富の分配に移ってきたのではないかと私は思う。
■飽くなき欲望が招いた環境問題
が、今その政治の役割は大きく変わらざるを得ない局面を迎えている。 それは俗に言う環境問題というものが変化を要求しているからである。
人間が一生物として、人間の力だけを使っていたなら、環境問題は起こらなかったであろう。 人間が環境問題を引き起こしたのは、ニューコメンが原理を発見した蒸気機関により、化石燃料をふんだんに用い、大量の仕事を行うようになったからである。 20世紀も後半になって、機械の性能も格段に上がり、人間が行った行為が自然や環境を大きく変えてしまうほどの影響力を持ったことが原因である。
有史以来、人間は自らの欲望に任せやりたいことを精一杯やってきたのではないだろうか。 社会的・時代的要因が邪魔をしたり、それこそ自然環境が制限因子となり思う存分思い通りできなかったとしても、そのときは人類は手加減なしに思い切り欲望の成就を目指し突進していたはずである。 現在は人類が自ら、自らが生存する環境を維持し続けるために己を自制することが求められている有史以来初めての時代なのではないだろうか。 生産や便利な生活のために化石燃料を用いれば、二酸化炭素を放出し、地球が温暖化し、環境が変わっていく。 分解や処理する以上の早さで廃棄物が掃きだされ、環境を汚染していく。
■「新しい政治」とは十人十色のしあわせの実現
もともと、資本主義を基本とする市場の原理に"ほどほど"といった考え方はない。 売れるだけ売り、作れるだけ作るという「それいけどんどん」が根本にある。 経済学も当然「どんどん」の生産面しか着目しない。 水俣病を代表とする公害というものに出くわしたとき、経済学者はいみじくもその意識を端的に表す名前をつけた。 それが「外部経済」である。環境面を考えることは経済学の対象ではないと言う宣言である。
その市場の原理に何とか制限因子を組み込むとすれば、税金という形が唯一の可能性であるかもしれないが、市場だけでその重責を担うのは無理に等しい。 私は思う。そこにこそ、今政治が求められているのではないか。
私は単に環境問題への対処だけが政治の新たな課題とは考えていない。 単なる我慢としての「自制」を政治が要求すべきだとも思っていない。
人間は生きている以上、しあわせを求める。 20世紀はこのしあわせを求める行動が「どんどん」と直接結びつく確率が高かった。 幸いにもモノがあふれたバブルを体験したわれわれは「本当のしあわせとは何か」を少し離れたところから考えられる。 しあわせには、家族と一緒のしあわせ、ささやかでも自己実現を追い求めるしあわせなど、実はさまざまな形があるのではないか。 このさまざまな中では、決して「自制」と矛盾しないしあわせを見つけられるはずである。 誰でもが、この本当のしあわせを追い求めることのできる社会作り、これが今政治が適切な富の分配と同時に果たさなければならない課題であると思う。
現在の政治学の講義で、政治がどう定義されているかは知らないが、私は昭和22年に書かれた坂口安吾の言葉のほうにより切実な響きを感じざるを得ない。
