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| 氏名 |
坂井学 (さかいまなぶ) |
| 生年月日 |
昭和40年9月4日 |
| 出身地 |
東京都府中市 |
| 趣味 |
野球、野菜づくり |
| 家族 |
妻、娘三人 |
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| 昭和56年 4月 |
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都立国立高校 入学 |
| 昭和60年 4月 |
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東京大学文科1類 入学 |
| 平成元年 3月 |
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東京大学法学部政治学科卒業 |
| 平成元年 4月 |
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松下政経塾十期生として入塾 |
| 平成 4年 6月 |
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スタンフォード研究所 国際研修生 |
| 平成 5年 8月 |
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松下政経塾 卒塾 |
| 平成 5年 8月 |
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衆議院議員 矢上雅義事務所 入所 |
| 平成 6年 8月 |
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衆議院議員 矢上雅義事務所 退所 |
| 平成 5年12月 |
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株式会社 地水社 入社 |
| 平成 9年11月 |
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株式会社 地水社 退社 |
| 平成 9年11月 |
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衆議院議員 鳩山邦夫事務所 入所 |
| 平成15年 8月 |
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衆議院議員 鳩山邦夫事務所 退所 |
| 平成17年 9月 |
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第44回衆議院選挙で151,617票の支持を受け当選 |
二級管工事施工管理技士
浄化槽設備士
浄化槽技術管理者
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武蔵府中リトルリーグ(6年生のときはキャプテン)、シニアリーグ、高校でも野球部に在籍。
高校は、甲子園に行った次の年の入学だったため、甲子園は経験できなかった。
大学ではL号軟式野球部(当時の名称)に入り3年生のときにはプレイニングマネージャー(監督)となった。一年間を通じ、一年生時3勝17敗、二年生時1 勝18敗1分のチームが監督時には11勝8敗1分で春期六大学リーグでは当時東大L号史上初の準優勝を経験した。他にAIESEC(アイセック・国際経済商学学生協会)やボランタス(知的障害を持った子ども達に社会教育を提供するお手伝いをする会)に所属し、国際交流やボランティアの資金集めの廃品回収などを行なった。 |
初年度の前半は、労働体験実習でアシックスのシューズ工場でラインに入る作業を体験。後半は同期2人と3人で「小選挙区制に効きめなし」の論文を仕上げ、月間総合雑誌「PHP」に掲載された。
二年目は熊本県庁(8ヶ月)と人吉市役所(4ヶ月)にて行政研修を行なった。
県庁では地域振興課、市役所では市制50周年事業推進室に在籍した。
当時細川知事の日本一づくり運動が提唱されており、地域づくりグループ達の一年ががりのイベントをサポートし、熊本県地域づくり推進協議会の立ち上げに参画した。
三年目はアジアの地域と今後の展望ということで、まだ開発されていない地域を大資本なしで幸せなコミュニティーにするためにはということでNPO「地球市民の会」の協力を頂いてタイの田舎にホームスティを体験した。
この頃「スモール・イズ・ビューティフル」「自然農」「エントロピーの法則」の考え方に出会う。
四年目にはアメリカ、カリフォルニア州にあるSRIインターナショナルという研究所で先進国における地域振興のノウハウを研修した。
SRIはスタンフォード大学から分かれた研究所として基礎技術の研究が盛んで、地域振興の手法もテクノロジーパークを中心とした企業クラスターを構成していくといったものが主であった。
五年目は日本に帰国と同時に平成5年の衆議院選挙だったため、熊本の知人に誘われ細川護熙選対の一員として選挙を体験する。その後退塾。
矢上雅義事務所では、公設第1秘書として、一年間議員会館にて勤務した。
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松下政経塾での研修を通じ、21世紀は水と土の時代との確信を持ち、自らの身をもって体験するため熊本県阿蘇郡蘇陽町にある地水社、佐藤社長の元で働いた。
地水社というのは土壌浄化法という方法を用いた汚水処理がメインの会社。
その他、浄化槽設置や床暖房、それに関わる配管、ボイラー、シンク、便器などの器具設置、大工仕事など、この間現場で作業員として働いた。菅工事や浄化槽の国家試験もこのとき取得。
水と土の両方を勉強できる場で、朝5時半に起きて自然農にも挑戦した。3年いる間に社長の家族とともに、手植え手刈りで3回の米づくりも体験した。
蘇陽町大野にある幣立神宮の境内の借家に住み、地元ではソフトボールチーム「セブンスター」や消防団第二分団などに所属し、部落の草刈りや労働奉仕にも参加した。 |
「自然との共生」を政治活動の原点にする衆議院議員鳩山邦夫の理念に共鳴し、秘書になる。
文京・台東・中央区を選挙区とするなか、中央区の地区担当として後援会活動に携わる。同時に、政務担当秘書として、国会周辺並びに政策を担当。
旧地元では地区担当の延長で、中央区の方との窓口として旧地元の会合や党の支部などの会議に出席した。
鳩山邦夫議院運営委員長時にも議運担当として連絡や情報収集に従事した。
鈴木宗男議員(当時)の逮捕許諾請求、辞職勧告決議案、田中真紀子議員の辞職などの案件を間近で体験。
鳩山邦夫有事立法委員長時にも担当し、委員長を補佐。与党理事懇談会には毎回出席し、そこで理事の先生方に状況説明をするなどした。
鳩山邦夫代議士を囲む中央官僚の会も担当し、各省庁の課長クラスの方々10数名と鳩山邦夫代議士の日程アレンジから様々な情報のやりとりを行った。
また、鳩山代議士が会長を務める超党派の議員連盟「自然との共生を考える国会議員の会」事務局を切り盛りし、鳩山代議士の著書『環境党宣言』出版の際には、裏方として中心的な役割を果たした。
衆議院議員選挙に立候補するため、平成15年8月31日、同事務所を退職。
13年前、松下政経塾生だった若かりし日の坂井学(当時25歳)は何を考えていたのか・・・。
01 活性化への提言 その1~観光
日刊人吉新聞(1991年4月15日)
02 活性化への提言 その2~魅力
日刊人吉新聞(1991年4月16日)
03 活性化への提言 その3~球磨焼酎
日刊人吉新聞(1991年4月17日)
04 活性化への提言 その4~個性
日刊人吉新聞(1991年4月17日)
05 タイの貧しい子供たちの里親 学資を支援-地球市民の会 古賀武夫(42)
月刊誌「地域から日本を変える」(1992年4月号)
06 肥後千人衆の「心おこし」「知恵おこし」
月刊誌「地域から日本を変える」(1992年5月号)
07 氷点下30度、沸騰する「知恵タマゴ」
月刊誌「地域から日本を変える」(1992年6月号)
08 次世代のシリコンバレー 地域と企業の共生めざす
月刊誌「地域から日本を変える」(1993年3月号)
そして、13年後。自ら「言いだしっぺ」となって社会を変革すべく、坂井は立ち上がった・・・
09 地盤なく「時間との戦い」
読売新聞(2003年10月13日)
10 衆院選落選候補者の金欠浪人生活
スポーツニッポン(2003年12月13日)